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48回目 企業文化の威力

企業にとっての文化とは

世界で最も文化的な都市は、フランスのパリだと評判されています。 しかし、裏町の方に行ったら結構汚れていたりして、日本の方が行き届い ており清潔なようにも感じます。 とは言うものの、一度の経験でモノ申すのもおこがましいのですが、やは りフランスにはなんとはなしに感じられる文化の風があります。
現在のパリの美観は、ナポレオン3世の統治の時代にセーヌ県の知事であ ったジョルジュ・オスマンによって改造されたとのことです。 都市の美観はこのときにつくられるものです。 つくられるものであるものの、その国の美意識の蓄積がありそれが多くの 観光客を呼び込む力を発揮するのでしょう。
ここでパリの話をあげましたが、人をして根源の影響を知らずして与える のが文化が持つ威力でしょう。 日本では、飛鳥時代の法隆寺は大和朝廷の権威を見せるものであり、織田 信長の安土城にしろ豊臣秀吉の大坂城にしても壮麗であるとともに目に見 て感じられる「文化」が人の心に畏敬の念をつくりだします。
文化は、人をして一定の感慨に導く装置になります。 経営においても、その活動の根底に流れる文化がその企業で働く人の思考 と感情と活動に普段に影響を与え続けます。 良い文化は良い影響を、悪い文化は悪い影響を与え続けます。 経営者にとってどのような文化を作り上げるかが大きな課題となります。
企業にはそれぞれに特有な文化あります。 優良企業は意識してか意識せずかは別として、経営者が「立ち振るまい」 と根気強い説得の「言葉」によって統一した精神を創り出します。 この統一した精神は、創業経営者か中興の経営者が強い使命感も持って事 業に取り組むときに形成が促進されます。
そのような文化は、成長の基本原理を満たしながらその一方で経営者の個 性によって異なる色合いを持ちます。 アップル社は、携帯音楽プレーヤーのiPod、タブレット型情報端末のiPad スマートフォンのiPhoneなど驚きの商品開発を断続的に行っています。 これはスティーブ・ジョブズの個性によるものです。
文化の個性について面白い話があります。 生産性の向上は、利益を向上させる最も効果のある基本活動です。 パナソニックとトヨタには企業間交流があり、コストカットについてそう とうシビアなパナソニックが「トヨタ方式」に触れた時にその徹底ぶりに とても及ばないと感心したという話が残っています。

目標としての企業文化の構築

ジャック・ウェルチのGEは、以前ほどの勢いはなくファイナンス部門の 縮小に四苦八苦していますが世界の企業が模倣しようとした企業です。 そのジャック・ウェルチが、マネジメントの究極の到達点を「文化の構築」 としています。 「企業文化」が確立されると、管理なくして企業が自発的に機能します。
企業文化といっても、経営者の考え方により異なる形をとります。 異なるから文化で、もっと普遍的になれば文明になるのでしょう。 ジャック・ウェルチの場合、求める企業文化の目標は「一番もしくは、2 番になる」ことで、そのために必要となる「人」が持つ知識と活力を引き 出すためにあらゆるチャレンジを思考し実行しています。
中国の兵家で孫子と並び称される「呉起」に面白い逸話があります。 「呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。」という もので、続いて言うには「あの子の父親は膿を吸っていただき、感激して 命もいらずと突撃し戦死した。あの子もきっとそうなるだろう」と嘆いた というものです。
呉起は軍中にあっては兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て兵士達の心をと らえました。 そのため、まったくに信服して命も惜しまず圧倒的な強さを見せました。 将軍の行動を通して示されるあり様は、言葉以上に兵士の心に染み入って 軍団全体の精神が形成されます。
文化の構築には経営者自身の生な行いが、直接に部下の気持ちに浸透する ものです。 強い組織には、経営者の信頼の行動があります。 ローマのシーザーにしてもフランスのナポレオンにしても、大将が先陣に あるときもっとも勇敢な軍団となっています。
文化の構築に関する逸話に「孫武」の話があります。 呉の王「闔閭」から宮中の婦人の指揮を命じられ、寵姫二人を隊長に任命し て練兵を行いました。 もとより戯れととった女性たちは笑うばかりで命令をきかず、ために隊長 二人を斬首したところ粛然声も出さず命令通りに進退しました。
「背水の陣」ということわざがあります。 漢の韓信が趙と戦ったとき川を背にして戦わせ、一歩も引けない状態で死に 物狂いで戦闘させ敵軍を打ち破ったという故事に基づいています。 企業文化の構築にとって「背水の陣」は、一つの大きなアイディアをもたら しています。
自身を個性として知りかつ現場も人一倍知りかつ殺生与奪の権をもっている 責任者から、期待され信任されたとき前にすすもうとするのが人情です。 さらに仲間が前にすすもうとする勢いを持ち、後を振り向くことが恥辱とな り懲罰さえ受けることになるとき粛然と決意は決まります。 これが、勇敢な人達をつくりあげる戦略です。
また、「背水の陣」で勝利するときに、自身の達成感は困難であればあるほ 高まりかつ誇りに思えることになります。 同じくして、物心両面の評価が加わると万全なものとなります。 最大の知恵と知識と活力が、企業のミッションである顧客の欲求の実現に向 けかつ生産的に実現させるときに利益がもたらされます。
さらに付け加えなけばならない要件があります。 それは「意味」、生きている意味にかかわる問題です。 人が一番関心があるのは自分で、人が最大に持てる知恵と活力を発揮するの は組織が生きていける補償と「働くことの意味」と「公正さ」と「自立性」 と「危機感」と「学習と成長機会」を与えたときに実現します。
あとは経営者の人間観や価値観の在り方によって、組織は異なる文化の形成 がなられて独自の強みが形成されます。 優しい企業というのはどのような企業でしょうか。 企業が、一番や優しくなければならないのは「顧客」に対してです。 そうしたら「顧客」に優しくない従業員への優しさとは何になるでしょうか。

文化構築の物語

先に述べたジャック・ウェルチは、GEが好業績であった時代に「必要に迫 られる前に自らを変革せよ」の哲学のもとにリストラクチャリングを断行し ています。 それと同じくして、「革新」と「学習する文化」の拠点としてビジネススク ールの先駆けである「クロトンビル」を設立しています。
「クロトンビル」は研修センターですが、ジャック・ウェルチはさらに重要 な役割である「文化」構築の最前線としています。 数週間に一度はここに訪れ、100人が入れるピットと呼ばれる教室で従業 員に直接に価値観を伝道するとともに情報交換を繰り返しました。 またここで4半期に一度、上級幹部数十名と戦略とプランを練りました。
企業文化は経営者自身の強い思いと熱意をもって、根気強く率直に直接訴え 続けることなくして浸透しません。 あの荒法師の異名のあった東芝の土光さんですら、御公家様文化の根本的な 改革がなされなかったようです。 企業文化が強みであるパナソニックでも、微妙に揺らぎが起こっています。
企業文化は、創業者の強い信念と避けえない危機的状況の共有が相互作用と して発酵したときに強固に形成されます。 優良企業には、それぞれの個別な歴史の中で培われた精神性があります。 他からみると不可思議であったり驚嘆するものであっても、その組織の全成 員があえて言わなくとも当たり前のことと実行されています。
その事例を日本の代表的な自動車メーカーから探って行きます。 「カイゼン」のトヨタ、「パワードリーム」のホンダ、ゴーンさんの「ニッ サン」から見て行きます。 ニッサンについては最近なので危機的状況があったことがわかるのですが、 トヨタにもホンダにもそれぞれにその時期がありました。

<トヨタ>
創業は1937年で、創業者(当初副社長)は豊田喜一郎氏です。 「自動車工業を確立しなければ日本の産業は育たない。」との思いと「やり 難い事業をものにするところに面白味がある。」の気概のもとに事業を始め ています。 「ジャスト・イン・タイム」は、アメリカを凌ぐための同氏の発案です。
2度の人員整理を行っていますが、2度目は同じ轍は踏まないとの思いの中 「ドッジ・ライン」のために図らずも余儀なくなされたものです。 当時のメインバンクからは、融資を断られています。 「トヨタ銀行」と揶揄されるところの10兆円近くの内部留保資金を持つに 至るのは、この時の労使ともの「思い」があったからでしょう。

<ホンダ>
創業は1948年で、創業者は自動車が好きで好きで仕方がない本田宗一郎 氏で、のち経営を仕切った藤沢武夫氏は翌年に入社しています。 同社の特色は、「技術の本田」「経営の藤沢」の独特のパートナーシップに より企業が運営されてきたことです。 ヒューマニストの本田とロマンチストの藤沢が、ホンダ精神の原点です。
本田さんの技術者魂は「人の真似はしないこと」「世界一になること」です。 ホンダでも倒産間際のときがあり、従業員の奮起の一策として「マン島のT Tレール」出場を宣言され7年後に1位から5位までを独占しています。 ホンダの社長は全て技術系ですが、役員の「大部屋制」があり藤沢さんの影 響を受けた経営の専門家とでパートナーシップがとられているようです。

<ニッサン>
創業は1933年で、日本初の国産自動車メーカー快進社を加えて鮎川義介 氏により設立されました。 創業期より先進技術の吸収に積極的で、アメリカから設計図や設備などを購 入したりオースチンと技術提携したり「技術の日産」として名を馳せました。 しかし、商品企画や販売戦略に弱みがあり1999年破綻を来しました。
日産に救済の手を差し伸べたのはルノー社で、同社副社長であったコストカ ッターの異名をとるカルロス・ゴーン氏の「日産リバイバルプラン」によっ て息を吹き返しました。 ゴーン氏は一年間社内をくまなく巡り、白紙からプランをつくりました。 その時、コストカットと同じくして新車モデルチェンジも行っていました。